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ちゅぱお と ちゅぱみ と ちゅぱろう - へっぽこ父さんの育児日記 -

1歳児くんと兄妹のわんぱく日記。 でも、稀に趣味日記も書きますよ^^

人の心  


最近、子供たちが逞しくなったなぁ~と思う。年相応に考え方が深く、詳しく、細かくなり、
自分たちで出来ることや、判断・決断することが、どんどんしっかりしていくなぁ~と。

まぁ、ちゅぱおはこの春に中学生になるんだし、ちゅぱみだってもう10歳だもんね^^

ちゅぱおは、背丈もおかさんに近づき (ほぼ同じ?) いつの間にこんなに大きくなった?
ちゅぱみは、家族をよ~く見ており、そっと人知れず優しい手紙などで励ましてくれる。

親は子供のことを、ずっと小さい存在、拙い存在、助けるべき存在だと勝手に思ってるけど、
時には、親はその子供に助けられていることに気づいた方がいい。
そこにいてくれるだけで、傍で楽しく遊んでいるだけで、どれだけ心が救われることか^^

いや子供だけじゃない。自分の親しく大切な人たちが、いつも周りにいてくれるからこそ、
自分は自分であり続けられ、そうして人の存在、「人の心」 は守られているのだろう。


人の命は有限であり、言わば死へと向かって生きていると言っても過言ではない。
そう思うと 「命」 ってものすごく儚くて切ないもののように思えるが、実際そうなんだよね。
誰もが普段からそんなことを意識して生きているわけじゃないけど、それでも、
あるべきものがある、いるべき人がいる、それこそ明日も何も変わらずに…とは限らない。

世の中いつ何が起こるか分からず、未来は決して保証されてはいないのだから、
どれだけ気をつけたところで、人生良いことだけではなく、悪いこともまた等しく起こる。

大切な家族や肉親、身近な親族、親しい友人や同僚…、自分にとっての “いつもの人”
その人がいなくなった時、現実を受け入れられない自分に衝突し、やがて後悔する。

なんで、もっと、ちゃんと、こうできなかったんだろうか、ああ言えなかったんだろうかって。

後に悔いるから 「後悔」。こんなこと恐らく100万回くらい言われているだろうけど、
でも人間はそれを覚えない。覚えないから、後悔の二文字は永遠に人を蝕み続ける。

人は反省し成長する生き物。後悔を学び、過ちを正して、それを糧に次へ、前へと進もう!
…確かにそうなんだろうけど、でもやっぱり、後悔とは辛いもの。できればしたくはない。


人知の及ばない災害や突発的な事故などは、どうしようもないのかもしれないけど、
人がこしらえた後悔は、恐らく前兆があって、実はそれ自体に気づいていたりもするよね。
「この先、ここで、これをしたら、これを言ったら、もしかしたら後悔するかもしれない…」

もしもそうした分岐点に立ったなら、よく周りを見て、自分の歩んだ道を振り返ってほしい。
自分の周りには誰がいて、または大切な人は誰で、自分はどう思われているのか…
今までどう過ごして、これからどうしていきたいのか、どういう将来を夢描いているのか…

そう思えたら固まった思考から脱却し、きっと 「別の選択肢」 も考えられるようになる。
選択肢はひとつじゃない。ちゃんと考えればいくつも手があり、最善策だって埋もれている。
それが自分と、自分の周りの人にとって幸せの一手に成り得るのであれば、
試さない手はないよね。その一手のための努力は、みんなで惜しまない方がいいよね。

大切な人、親しい人とは、一日でも長く一時間でも多く、辛く切なく寂しく悲しい時ではなく、
嬉しく楽しく幸せな時間を共有したい。そうなれるような選択肢をよく考え選んでいこう^^


たった言葉ひとつ、行動ひとつが、どれだけ相手の心に傷をつけるか考えたことはある?

相手の事をよく考えず、しっかり思うこともなく、否定や批判や攻撃的な言葉ばかりを並べ、
さも自分は正義だと、自分は間違いないのだと、妄想に取りつかれた頭で責めたてる。

中には、自分が特別な人間であるかのように勘違いをし、他人を見下し続ける輩もいる。

相手にとって、どれだけの努力や決意の上に成り立った結果なのかを考えようともせず、
何も知らない他人が、名乗りもせず、文字や言葉で簡単に人を蔑み、傷つける時代。
もしも自分がされたら憤慨し、怒鳴り散らすようなことを、人は平気で他人にするんだよね。

テレビで言ってたけれど、そういう人は自分に誇れるものがなく卑屈な精神でいるから、
それこそ輝いて見える他人を羨ましく思い、その妬む心を隠すために否定や批判に走るって。
世間に認められている人と認められていない人。そんなものでもないんだろうけど、
「人をとやかく言う前に、まずは自分どーにかしろよ」 ってことだよね。まさしくブーメラン。

本当は、そうした無粋なことも後悔に繋がるべきなんだろうけど、でもそうはならない。
きっと誰にも咎められないようにしているだろうから、悔いることもなく、後悔に繋がらない。
いつか自分が誰かに同じことをされたら気づくの…かな? 因果応報を痛感しながら。


大切な家族でも同じようなことは度々起こる。親から子へ、夫から妻へ、またはその逆で。
つい言ってしまったひと言、やってしまった態度、取り返しのつかない行動…
大事な歯車が噛み合わなくなって、一枚岩のつもりでいても欠けてしまうことだってある。

人の心は感情に包まれている。いくら理屈をこねたところで、辿り着く結論は感情に基づき、
自分の心はどうなのか? 家族や我が子の心は? それに面と向かわなきゃならない。
当り前だよね。恋愛も結婚も出産も育児も成長も、全ては 「愛情」 という感情がエネルギー。

ただし怒るのも、嘆くのも、諦めるのも、嫌うのも、同じ感情だということを忘れてはならない。

失くして初めて気づくもの。それはたくさんある。どうして失くす前に気づけなかったのか…
これもまた後悔の二文字。場合によっては気づかずに終わることだってあるだろう。

人の心は強くなく、人の心は硬くなく、人の心は広くなく、人の心は決して自由ではない。
それでも弱く脆く狭く不自由な心の人間同士で、互いを助け補い合うのが夫婦であり、家族。
上手ではなく便利でもなく、お互いが完璧ではない不出来な存在だから必要なんだ。

ひとりでは生きられないからこそ、支え合い助け合う存在を得て、人生をまっとうするの。


おとさんはまさにこれ。ほんと大した人間ではなく、弱くて情けなくて、ひとりじゃダメすぎる。
だからおかさんと出会い、結婚して夫婦となり、子供がふたり生まれて4人家族になった。

どれだけおかさんに支えられたか分からない。どれだけ子供に助けられたか分からない。
当たり前のように、自分で何でもやれている、出来ている気でいても、その実、そうではない。
家族がそうしてくれるからこそ、力になり勇気となって、一歩ずつ前進できているんだ。

傍にいてくれることのありがたさ。笑顔を見せてくれることのありがたさ。家族のありがたさ。

早く気づいた方がいい。どれだけ力になってもらっているのかを、早く気づいた方がいい。
そして気づいたのなら感謝の気持ちを忘れてはならない。めいっぱい感謝をしよう^^

自分の人生は 「家族のためにある」 と思っている。
おかさんを、ちゅぱおを、ちゅぱみを、幸せにすることで、自分自身の幸せを大きく感じる。
もちろん出来ることには限りがあり、知恵も知識も物足りなく、世渡りなんてヘタだ^^;
それでも、その最大範囲で笑顔と愛情を贈り続けて、めいっぱいの幸せを感じさせようと思う。

そしてその気持ちを忘れることなく、怠けることなく、いつものことにしていこう!
そうしたら家族も自分もきっと幸せ。今年も来年も幸せで、はては人生までが幸せになる♪


いつか人生を振り返った時に、「あの時こうすればよかった…」 と、後悔をしないように。



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震災から1年…  


2011年3月11日に起こった東日本大震災から、ちょうど1年が経ちました。

我が家は5年前より西日本に移り住んでいるため、震災の直接の影響はありませんでした。
だから、震災を語る言葉も、東日本で実際に大きな被害に遭われた方々にとっては、
あまりにも軽すぎて、取るに足らない言葉のように感じられるかもしれません。

ですが、私が生まれ育った故郷は埼玉県で、今も母や兄弟家族が住んでおり、
また大きな被害を受けた福島県は、今は亡き父の故郷。
南相馬の親戚の家には、私たち兄弟が幼少の頃、毎年夏に家族で訪れてお世話になり、
内陸である埼玉で暮らす家族にとっては、福島は夏の海を満喫できる大切な場所でした。

その親戚の皆さんも、思い出の家も、今回の震災で被害に遭いました…

なので、震災から1年が経った今、日本にとって、はては世界にとって、
この歴史的な大災害を決して忘れぬよう、自身のブログにも記そうと思います。


あの日、自然の猛威によりあっという間に一面瓦礫の山と化した、惨憺たる被災地は、
人々の力で復興したところもあるけれど、大半が “何もない更地” と変わりました。
いえ、悲しいことに、今もまだ被災した状況のままである場所も少なくはありません…

そのような人も家も明かりもない更地の世界など、いったい誰が想像できたでしょうか?

あの大震災が起こる直前まで、そこには人が住み、道が通り、家が並び、街が形成され、
人々の喜怒哀楽が絶えない、雑多で喧騒とした温かな “生きた世界” が確かにありました。

人はそうした雑然とした社会の中で、人として回りの他人と共生し、己が人生を生きていく。
何もない土地で、音もない場所で、誰もいない世界で、人はひとりでは生きていけない。
だから人が人として生きていけるように、何も無いところに雑然とした空間を形づくるのです。

街の在り方を 「家」 に置き換えたり 「部屋」 に置き換えても、人が求める世界は同じ。
何もない家や部屋に、人は好んでは住まない。
人らしく自分らしく生活できるよう、何もない場所に何年もかけていろんなものを持ち込み、
およそ綺麗とは言いがたい雑然とした空間を、わざわざ形づくっていくのが人間。

人は完全な生き物ではないから、その雑然とした不完全さに安心を得るのかもしれない。

そうして自ら雑然としておいて、整理整頓・掃除片付けをしなければならない状況を作り、
誰もが、その己が行為に幾ばくかの不平不満を抱きつつ、それを綺麗にする苦労に勤しむ。

人とは、そうした不思議な生き物。だけど、それが人の生き方。

ただし、自分が自分らしく住みやすいように、自らが苦労して雑然と作り上げた部屋を、
何の断りも無く、勝手に他人にごっそりと変えられて、喜ぶ人はいない。

また、家族が自分たちらしく住みやすいように、家族で苦労して雑然と築き上げた家を、
何の断りも無く勝手に変えられて、喜ぶ人はいない。

そして、そこに住む人々が住みやすいように、みんなで苦労して雑然と組み上げた街を、
何の断りも無く勝手に変えられて、喜ぶ人はいない。
たとえそれが自然の力であったとしても、誰ひとりそんな暴挙を喜ぶ人などいないのだ。

いったい人が何年かけて部屋を作り上げた? 家を築き上げた? 街を組み上げた?
どれだけの人がどれだけの思いでどれだけの歳月をかけて作った社会だと思っている?
いったいどれだけの人々の人生が集約していたところだと思っている?

そこに住む多くの人の笑顔も思いも苦労も歴史も命さえも、全部飲み込んで破壊し尽くした、
あの悪魔のような地震と津波を、本当に本当に心から憎らしく思います。

天災は決して人には抗えないものかもしれない。“運命” だと言われたらそれまでだけど、
もっと違うカタチで人生をまっとうできたはずの、多くの方々の命を無情にも奪い去る、
そんな理不尽極まりない運命など、世の中の誰が受け入れる? 誰ひとり望むわけがない!

自分の人生、自分の生涯は、自分が思い悩んで苦労し、自分自身で立派に紡いでいくから、
神か仏か知らないけれど、勝手に運命を決めつけないでいただきたい、と切に願います。

今もまだ完全に沈静しない地震。また関東や東海にも大地震が来る可能性が高いことが、
声高に叫ばれ、避難訓練や被災時の心得などが、テレビや雑誌で伝えられています。
まだまだまったく風化するべきものではない、東日本大震災からたった1年なのに、
心の安息や平穏な日常を、満足に得られないままに不安を煽られ過ごさねばならない…

もう十分なんだ。十分すぎるほどの苦難を日本国民は体感し、背負って生きているんだ。
もしこの世に神や仏がいるのならば、日本にどっしりとした平和な時間を、お願いします。


…と、こうして先の震災を嘆き、悔やみ、いろいろと考えても、時は決して止まらない…

震災によって生活に大きな影響があった人はもちろんのこと、影響がなかった人でも、
みな、少なからず人生に何かしらの変化があったのではないかと思います。

決して悪い変化ばかりではなく、人によっては意識的に良い変化が生まれていてほしい。
人の命の大切さ、助けあい信じあい人を思いあう心、何気なく過ごす平和の尊さ。
そうしたことにあらためて気付かされた人は、きっと気付かなかった頃よりも良いはず。

たとえどんな影響や変化があったとしても、人は少しずつ、ひとつずつ、一歩一歩でも、
ただ前向きに、明日のため、その先の未来のために、前進していかなければなりません。

自分を思い、大切な誰かを思って、お互いの人生がより良い方向へと進んでいけるよう、
しっかりと前を見据え、耳をすませて、力強い足取りで前進していきましょう!
きっと大丈夫。日本は皆が一緒にこの苦難を乗り越え、頑張っていける国だと信じてます!

がんばろうニッポン!!


最後に、震災で亡くなられた本当に多くの方々のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。



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次男から実家へ  


埼玉の実家は、電気・ガス・水道とライフラインに関しては、なんとか確保できている。
でも、まだ余震は続いているので、注意を怠るわけにはいかない。
また電力不足で東京電力の 計画停電 が開始され、普段の生活とは異なる日々が始まった。

とりわけ、停電時の電源確保に必要な 乾電池 が圧倒的に不足している模様。

被災地である東北ほど物資が不足しているわけではないが、すでに乾電池が手に入らない。
もうどこに行っても無い状態らしい。100均でもドンキでも必ず見かけるものなのに…

よって、うちから実家へと送ろうと思い、昨日、買い物に出かけた。
が、すでにこちらも品切れ店が続出! 出遅れた感すら感じる無くなりよう。
恐らく、上京して生活している息子や娘に対して、親御さんが送っているのだろう。

それでも、一番品切れの単1から、単2~単4まで乾電池をそれぞれ20~40本ずつくらい入手。
また、カップ麺やインスタントラーメン、スープや味噌汁、お菓子、懐中電灯などを複数買い、
空きダンボールひと箱に梱包して、いざ郵送!! (現在は到達に大きな遅れが生じております

0315荷物

これくらいのことしかできないけど、実家や兄弟の家庭に少しでも足しになれば幸いだ。

静岡でもあった。茨城でもあった。大きすぎる余震。いつまでもいつまでも続く地震。
早く、本当に早くこの状態が落ち着いてほしい。完全に地震が終わってほしい。
どれだけの人が辛く悲しい思いをしていることか…、大変な状況に立たされていることか…

もう地震は十分だよ、神様。 もう本当に十分なんだ…



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地震マニュアル  


他のブロガーさんの記事で、とても有用な地震マニュアルがありましたので、
ご本人様より快く許可をいただき、こちらでも引用させていただきました。

こんな私のブログでも、誰かの役に立てるのなら…、いや、立ってほしいです!


************ 以 下 引 用 *************


【必要な持ち物】
・現金
・身分証明書
・印鑑・保険証
・飲料水 (1人1日3リットルが目安)
・非常食 (缶詰・お菓子等)
・携帯電話と非常用充電器
・ティッシュ
・タオル (5枚くらい)
・懐中電灯
・ラジオ
・雨具
・カイロなど、防寒具 ※1 追記へ
・軍手、手袋
・マスク (防寒や、煙を吸わずに済む)
・ゴミ袋 (大きい方がよい。防寒や防水、器代わり)
・サランラップ
・輪ゴム (数本でOK)
・毛布
・新聞 (防寒)
・家族の写真 (はぐれた時の確認用)
・ホイッスル (生存率が格段に上がる)
・メガネ ※2 追記へ
・いつもの薬
・生理用品 (必須) ※3 追記へ
・音楽プレーヤー (音楽を聴いて落ち着ける、物によってはラジオ機能有)
・布テープ (あると便利)
・クッション (できれば。頭を守れます)
・缶きりや小さめのナイフ (体育館などでの避難生活が続く場合) ※4 追記へ

【緊急行動パターン】
・ドアをあける
・荷物は玄関へ
・底の厚い靴をはく
・ガスの元栓を締める
・出来るうちに携帯充電
・停電時、ブレーカー落とす
 (感電の恐れがあるので、家中のコンセントを抜いてからの方が安全です)
・窓には近よらない (ガラス片が危険)
・24時間は地震が続くだろう
・とりあえず落ち着く
・災害用伝言ダイヤル171の利用 (避難場所も伝える)
・電話は最低限
・Skypeなら使える ※5 追記へ (海外にいらっしゃる方へ)
・警察を偽った詐欺電話に注意

【避難時の注意】
・倒れかけのタンスや冷蔵庫に近づかない
・ガラスや塀に注意
・壁の亀裂や柱の傾きは倒壊のおそれあり、即避難
・狭い道、崖沿い、川沿い、海を避ける
・海沿いの人は高台に避難
・ヘルメット着用。ヘルメットがない場合、雑誌を頭にのせてタオルで巻く。
・火が付きやすい化繊や綿の服を避ける
・マスクや濡タオルを装備する
・火災時は風上へ
・車は走るのをやめて路肩に寄せて停める
・車がある方は、窓を全開にしてラジオを大音量で流す (できれば)

【地震が起こる前なら】
・ヘルメットはあるか
・非常食の蓄えはあるか
・水の蓄えはあるか
・応急処置セットはあるか
・寝袋はあるか
・非難所・非難所までのルート
・靴下を履いて寝る
・スリッパ (できれば底の厚い靴) を手元に置いておく
・カーテンを閉めておく (ガラスの飛散を防ぐ)
・ドアにタオルを挟んでおく

【NTT公式情報】
公衆電話は災害時には優先的につながります。
災害時には被災地の公衆電話は無料で使ます。
ただし国際電話は使えません。

【無料公衆電話のかけ方】
・緑色のアナログ公衆電話
 緊急ボタンを押すか、10円玉を入れれば通話できます。
 通話が終わると10円玉は戻ります。
・デジタル公衆電話
 テレホンカードや10円玉を使わず、
 受話器を取るだけで通話できるようになります。

【災害用伝言ダイヤル】
◆被災者の方
1.伝言ダイヤル 「171」 を押す。
2.「1」 を押す
3.自宅の電話番号を押す。
4.伝言を録音する。

◆安否を確認したい方
1.伝言ダイヤル 「171」 を押す。
2.「2」 を押す
3.安否を確認したい方の電話番号を押す。
4.録音された伝言を再生する。

【NHK安否情報放送】
NHKでは安否情報に関する放送をするそうです。
次の電話番号にご家族の状況やメッセージをお寄せください。
03-5452-8800 050-3369-9680

【Google Person Finder】
Google安否確認サイト
http://japan.person-finder.appspot.com/?lang=ja

【災害用伝言掲示板】
au http://dengon.ezweb.ne.jp/service.do
docomo http://dengon.docomo.ne.jp/top.cgi?es=0
softbank http://mb.softbank.jp/mb/information/dengon/index.html
ウィルコム http://www.willcom-inc.com/ja/info/dengon/
iモード http://www.nttdocomo.co.jp/info/disaster/
NTT東日本 http://www.ntt-east.co.jp/saigai/voice171/
災害用ブロードバンド伝言板 https://www.web171.jp/

【エフエム岩手】
エフエム岩手では、みなさんからの安否情報を受け付けています。
メール、ファックス、ツイッターでお願いします。
メール fmiwate@yahoo.co.jp
FAX 019-604-3122  @fmiwate #fmiwate

【TwitterSOSタグ】
GPS機能もつけてつぶやくこと。
#j_j_helpme

【SOS時の緊急連絡先】
警察は 110番
救急車・消防隊は 119番
海での災害の際には 118番 (海上保安庁に繋がります)
警察総合相談電話番号
http://www.cia-3.net/hanzai2.html

【宮城県警察が相談電話】
宮城県警察本部では、今回の地震と津波で行方がわからなくなっている人
についての相談電話。
警察が安否を把握している場合は情報を提供するということです。
電話番号 022-221-2000 当面は24時間で対応するということです。

【全国非難場所一覧】
http://animal-navi.com/navi/map/map.html

【地震に遭遇したときの対応マニュアル】
http://matome.naver.jp/odai/2129850837113580401

【NHK各放送局災害情報】
各地域の災害情報確認のときに。
http://www3.nhk.or.jp/saigai/jishin/index.html

【地震対策まとめサイト様】
とてもていねいに情報が載せられています。
http://i.2chblog.jp/archives/2389640.html

※1
白金カイロをお勧めしていただきました。
白金カイロ、オイル (携帯ボトル)、
身につける用のポケット付きのベルト
(ホームセンター等で売ってるものでOK)
暖をとることに秀でているそうです。
火元の取り扱いなどもありますので、各自ご判断の上ご使用ください。

※2
メガネ・コンタクトをお使いの方は枕元に置いておきましょう。
メガネがなければガラス片が見えません。軽被害地の方で
心配ならば使い捨てデイリーコンタクトを作っておくと安心です。
地震時、衝撃でメガネが飛んでしまうケースもあるようです。
眼鏡ケースにいれて枕の下にいれておくなど、
各自生き延びるための工夫をお願いします。

※3
「生理用品」はできるだけ用意してください。予定日ではなくても、
地震のストレスで急に生理になってしまうことがあります。
その上、生理用品は止血帯としても利用でき、とても便利です。
タオル、ナプキンなどで大量出血された方を止血され、
医療関係者に患者さんを引き渡す際には、それをお伝え下さい。
失血量を見誤ると手遅れになりがちです。

※4
非常時では 「身分証明書」 があれば 「預金通帳」 がなくても
現金の引き出しが可能なので 「預金通帳」 は必要ない。下記参考URL
http://mainichi.jp/select/biz/news/20110312k0000m020137000c.html

※5
「海外から地震直後にSkypeで日本の家族へ携帯・普通回線試しましたが、
 駄目でした。海外から日本へ電話をする際は、普通回線からかけると
 いいかもしれません。私は料金の安いプリペイドカードを使いました。」
とのこと。情報ありがとうございました!


********************************


もう頑張って頑張って、想像を超えた状況の中、とうに限界まで頑張った方へ、
これ以上 「がんばれ!」 というのは酷すぎて、本当に嫌になりますが…

それでも応援させてください。励まさせてください。 みんな、がんばれっ!!



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東北地方太平洋沖地震  


東北・関東にお住まいの皆さん、大丈夫でしょうか?
特に岩手、宮城、福島にお住まいの方、本当に本当に心配です…

私の実家は埼玉県。そして私は四人兄弟の次男。
兄や弟ふたりはそれぞれ、埼玉と東京に家庭を持っている。
そう、この地震に全員が巻き込まれたことに…
実家の母さんや兄家、弟家に何度も何度も連絡するが繋がらず、
やっと、ほんとにやっと繋がったのは弟の会社用PHS。
どうやら普通のケータイよりも、ピッチの方が繋がりが良いよう。

現在、自分はひとり西日本に家庭を持っている。
その私に、弟のピッチから 「無事だよ」 という連絡がきた直後、
兄からメールが届いた。「母と兄家はみな無事」 とのこと…
が、「弟とは連絡が取れない状態だ」 とも書いてあった。

同じ関東エリアどうしでは電話の規制がかかっており、
近くにいるのに連絡がとれないことが伺える。
当然、西日本から関東へも繋がらない状態だが、
向こうからこっちになら繋がる。

よって自分が中継局となって、
弟 → 私 → 兄の流れで、兄に弟の状況を伝え、
兄 → 私 → 弟の流れで、弟に実家の状況を伝えた。
なんとか相互に全員の安否確認がちゃんと伝わって、ひと安心。

母さんの実家は京都。京都にはうちの親戚がたくさん住んでいる。
やはり、京都から埼玉への電話も不通。
なので、ここでも私が中継し、実家の安否を京都の親戚に伝える。

父さんの実家は福島県の相馬市…

うちの実家はほとんど被害という被害はなく、ライフラインも安定。
しかし、父さんの遺影だけが仏壇から落ち、ガラスが割れていたという。
もしかしたら父さんが、福島のことを伝えているのかもしれない…

それにしても、本当にとんでもない地震。想像を絶する状況だ。
マグニチュード8.8。国内観測史上最大の大地震。
ニュースで見る映像はあまりにも恐ろしく、息子も怖がっていた。

本当に多くの方が亡くなっている…

そして余震が続く中での、早朝の長野・新潟への地震。
被災地に住み、今回の大地震に遭われた皆さん、
みなご無事で、心から何もないことを切に祈っております…

そして、亡くなられた皆様のご冥福をお祈り申し上げます。



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おばあちゃんへ  


9月21日、おかさんのおばあちゃんが永眠されました。享年88歳でした。

おこがましいことではありますが、おかさんのおばあちゃんのことを、
おかさんに代わって、このおとさんが少しだけ書かせてもらおうと思います。


3年前、平成18年に最愛のおじいちゃんを亡くされ、随分と寂しい思いをされたおばあちゃん。
おじいちゃんが亡くなったときに 旧ブログ でも書かせていただいたのですが、
本当におじいちゃんとおばあちゃんは、仲が良く、いつも寄り添って手を繋いでおりました。

おとさん方のおじいちゃんは、父方母方とも早くに他界されていなかったため、
おとさんは “おじいちゃん” への記憶、印象をほとんど持っておらず、
よって、おじいちゃんとおばあちゃんの仲睦まじい姿を見ることもまた、ありませんでした。

ですから、おふたりの姿を見ることが、とても嬉しく、また微笑ましかった思いがあります。


おばあちゃんは背が低く、背の高いおじいちゃんと並ぶと、一層低く見えるのですが、
とても気が強く、家族の誰もが負かされてしまうこともあったそうです。

そんな話しを聞く度に、おとさんはいつもそれが信じられませんでした。
だって、おとさんが知るおばあちゃんは、いつもにこにこ優しいおばあちゃんだったから。
孫娘が連れてきた婿だから、朗らかな面しか見せなかったのかな?^^

おとさんは、おばあちゃんのちらし寿司の密かなファンでした。とっても美味しかったです。

いつもいつもよくしてくれて、本当にありがとうね、おばあちゃん。
私は何もできなかったけれど、孫娘であるおかさんと、曾孫たちを幸せにしていきます!
これは約束。おとさんの約束は絶対。だから安心して見ていてね^^


おかさんは…、おかさんはおじいちゃんとおばあちゃんのことが本当に大好きでした。
おかさんのおかさんは仕事に忙しかったため、おかさんはいつふたりにみてもらっていたそう。
まさにおじいちゃんおばあちゃん子でした。だから、その悲しみはとても深い…

「長いこと入院していたし、その間に覚悟の気持ちをちゃんと作ってきたから、大丈夫よ」
そう、おかさんは言う。でも心の中ではきっとツライよね。悲しくないはずがない…


自分 (孫) の成長する姿、そして我が子 (曾孫) の成長する姿をちゃんと見てもらったよ。
おかさんはしっかり、おばあちゃん孝行ができていたんだから、自信を持っていいからね^^

おばあちゃんはおじいちゃんに、曾孫の土産話をいっぱい持っていったと思うよ。
そして今頃 「あの子らはそんなに大きくなったか!」 と、ふたりして微笑み合っていると思う。
曾孫の成長をとても楽しみにしていた、そんな優しいおふたりだったからね。

だから、おかさんも笑顔で元気な姿を見せようね。おふたりがより一層、微笑むように♪


88歳、今年で米寿を迎えたおばあちゃん。3年前のおじいちゃんも、また88歳でした。
おじいちゃんが亡くなり、その後3年を過ごして、同じ歳に永眠されたおばあちゃん。
偶然…じゃないのでは? と思ってしまうのは変なのかな…。とても仲の良いおふたりでしたから、
思い、願い、通じ、誘い、赴き、そんな人知の及ばない運命の導き、ということもあるのかも…


人間の生と死というものは本当に分からない。そもそも生きるとは何なのか、死ぬとは何なのか。
魂とは、命とは、人間とはどういった存在なのか。死後の先には別の世界があるのか、ないのか。

…解るはずもない、そんな根源的な疑問が、ふと湧いては消える…

おとさんもおかさんも、いつかは同じ道を辿る。そして我が子たちも、そのまた子らもそうであろう。

普段なにげなく日々過している 「人生」 。始まりがあり、そして必ず終わりがある 「人生」 。
この限りのある自分の人生を、昨日よりも今日、今日よりも明日。
少しずつ大切にして、ひとつでも多く笑ってみませんか? その方が素敵に思えるはずだから^^



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人生のステップ  


父さんの葬儀から2週間が経った。

本日9月27日は、実は父さんの誕生日。
享年は数え年で71歳となったけど、今日、満年齢でも71歳となった。
人生最後の2週間を終え、最初の2週間で誕生日が来るなんて、
ほんと人生って無情だね…

あれから私の夢には、しばしば母さんや兄弟家族ら、肉親が登場する。
外目には “もう大丈夫、元気だよ” という体を示していても、
自分が意識しない心の内では “その逆” ということなのだろうか。

「寂しくない」 と言ったら、そりゃウソだよ。

でも、そうした日々を重ねて、普段の日常を取り戻していくしかないんだ…


先日のお休みの日に、家族で久しぶりにドライブをした。
目指す目的地は、まだ結婚する前に私が初めてこちらの県を訪れた時に、
奥さんに連れて行ってもらったビーチ。もう7年ぶりぐらいになる。

言うなれば、私にとっての出発地点ってところだ。

車で約2時間。当時、一緒によく聞いていたジュディマリなんぞを流し、
夫婦でいろいろと話し、また親子でもいろいろと話した。
美味しいものを食べ、素敵な景色を眺め、本当に楽しいドライブだった^^

私の心が、そういった癒しの時間と空間を求めていたのだと思う。

そんな中、いつの間にかおかさんに写真を撮られていた。
私と子供たちの後ろ姿。

0925海

今、あらためて思い返すと、父さんは四人の息子たちに、
“同じ男として” 大きな背中をずーっと見せ続けてくれていたことに気づく。
これは男の成長過程において、とても大事なことだ。

父さんは家を3回も建て、その間に四人の子供を成人させ、巣立たせた。
だからといって仕事ばかりに捕らわれず、家族は常に一緒だった。
自分が大人になり所帯を持った今、それがいかに大変なことなのかがよく分かる。

一家を背負う大黒柱。それは内にも外にも頼りとなる、家庭の精神的な支柱。
そういった “力強く心強い存在” がいてこそ、家族は健全に育まれる。

いつか私も、自分の子供たちに大きな背中を見せてやらなければならない。
中身が備わった存在感の大きい背中となるまでには、まだまだ長い時間が必要だ。
それでも、自分の人生を賭けて大きな男となり、子供たちに見せてやろうと思う。

特に息子には、私よりも、父さんよりも、より大きな男になってほしいから…


よーし、ガンバロー! 悲しさ、寂しさはお腹いっぱい味わった。涙はもう十分だ。
笑顔になって、一緒にカッコイイ男になろうぜ、ちゅぱお^^

新しい一歩を力いっぱい元気に踏み込んで、さらなる未来へジャンプだ!!


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thread: 日常のひとコマ - janre: 育児

2週間 (4)  


9月11日 (木)

葬儀屋さんとの打ち合わせの後、家族で少し話してから眠りについたのが朝の5時。
しかし仲の良いお向かいのご近所さんらが、最初に駆けつけたのが朝の6時半。

1時間半の睡眠で今日が始まった。

朝、私は実家に飛んで来る前からずっと剃っていなかった髭を剃った。
そう、願かけはもう終わった。願いは叶ったのだから…

我が家のお墓があるお寺の住職さん、そして深夜に打ち合わせをした葬儀屋さん、
それぞれに連絡を入れ、お通夜、告別式、初七日等、葬儀の日程を決める。

その間、ご近所さんが続々といらっしゃるので、そちらも慌ただしくなる。
父さんは町内会の各役員に長らく在籍していたため、多方面で知り合いが多い。
町内が生まれた頃より40数年、ずっとここにいた。だからみんなが知っている。

朝早くからお線香をあげ、父さんの顔を見にきてくれる方々に、本当に感謝。

なお葬儀の日程は、お寺さんの都合、そして火葬場の予定により、
本来はお通夜を金曜、告別式を土曜にしたかったが、それぞれ一日ズレることに。

よって、お通夜が13日 (土)、告別式が14日 (日) に決まった。

そこでお昼に葬儀屋さんが再び訪れ、父さんを一時連れて行く。
一日空くこととなったので、エンバーミング (保存処理) を施すためだ。

エンバーミング後、帰ってきた父さんは驚くほど顔色が良かった。
本当に普通に寝ているような…、起きるのではないか? と思えるほどだった。
お線香をあげにきたご近所さん方も、みな驚いていた。

夜、京都から母さんの親戚が駆けつける。車で約8時間の大移動だったそう。
本当にご苦労様でした。私たちも京都の従兄弟と久しぶりに再会した。

みんないい歳になったよね。時代の移ろいを感じるのって、まさにこういう時か…



9月12日 (金)

葬儀日程が土日となったことで、今日一日の時間が生まれる。
しかしそれはとても大切な時間であった。

伴侶を失うこと、親を失うことは、とてもエネルギーのいるものだと痛感した。
それでも悲しみながらもやらなければならないことがある。それが現実。

喪主である母さんと長男を中心に、町会長さん、各班長さんを含め、
葬儀屋さんの各担当者らが、顔をつきあわせて葬儀内容をつめていく。

金額の面、内容の面、対応の面など、さまざまな事柄を話し合い、
父さんをより良いカタチで送り出す方法を決める。
時には意見の衝突があり、それぞれが譲れない主張を毅然と唱えた。

葬儀屋さんにも規定のルールがある、だが送り出す遺族にも強い思いがある。

そうした話し合いの末、やっと理想に近いカタチで出来ることとなった。
口利きをしてくれた町会長さんや班長さんにも、本当に感謝である。

そして長男としての責務を背負い頑張った兄に、心からありがとう。
兄が妥協をせず、しっかりと母さんを支え、いろんな取り決めを行なったから、
立派な葬儀を迎えられるのだと、弟である私は思っているからね。

またこの一日は父さんにとっても、とても大事な一日だった。

たった一日ではあるけれど、それでも病院からすぐに斎場へと移動するのではなく、
丸一日、愛すべき我が家にいられたんだ。これは “とても大切な” ことだと思う。

ずっと帰りたかった我が家での一日。父さんは堪能してくれただろうか?



9月13日 (土)

お通夜の日。

斎場へは午後4時に移動する。お通夜開始は午後6時。
だがその前にみんなで、父さんを自宅より送り出さなければならない。

午後2時。葬儀屋さんが訪れ、父さんの棺が部屋に運ばれた。
兄弟四人で父さんを抱え、棺の中へ。
そしてあの世への旅支度として、さまざまなものを形式に沿って入れていく。

その後、棺に一緒に入れたいものを入れてくださいと言われ、
父さんの作業着、愛用していたシャツ、入院中に使っていたタオル、大好きな新聞、
父さんが褒めた孫の絵、そして昨年、結婚40周年記念の時に撮った大家族写真。
また集まった孫たちも、それぞれひとつずつお菓子を入れてあげる。

我が子も、美味しくて昨晩3つも食べたお気に入りの洋菓子を、そっと入れてあげた。
父さんは甘いものが好きだったから、きっと喜んだだろう。

そして、みんなで棺を運び出して車に乗せ、父さんは一足先に斎場へと向かった。

私たちも喪服に着替え、斎場へ。
とても立派な斎場であり、立派な祭壇だった。これ以上はないだろう、と私は思う。

祭壇上の遺影の父さんは、いつもの笑顔で優しく微笑んでいた。
遺影は、結婚40周年の時の写真を選んだ。大勢の家族に囲まれて微笑む父さん。
妻、四人の息子、それぞれの嫁さん、そして六人の孫。本当に賑やかな大家族だ。

私は今の父さんと同じ70歳で、こんな大きな家族を作れているだろうか…

お通夜は滞りなく終った。
父さんの故郷である福島のご親戚、昔からの仕事仲間、呑み友達、町内会の方々、
仲の良いご近所さん、母さんの友人知人、息子達の仕事関係、そして親しい友達ら。
本当に多くの方がお通夜に参列して下さった。

こんなカタチで父さんの大きさを再認識させられるなんて、思わなかったよ。
やっぱり父親って偉大だね。

明日は告別式、本当に父さんとの最後の日、お別れの日だ。



9月14日 (日)

告別式の日。

朝早くから斎場へ。告別式と併せて初七日も一緒に執り行う。
だから斎場内でじっとしている時間が長い。
子供達は本当によく頑張った。お焼香も見よう見まねでなんとか出来た。

遺族代表として、長男が挨拶をした。とても立派な挨拶だった。
兄弟四人揃って看取れたこと、それは四人にとって大きな財産になるだろう。

いつまでも兄弟仲良く。父さんが伝えたかったことと、私たちの気持ちは同じだよ。
だから安心して見守っていてね。

棺の中にいっぱいの花を入れ、いっぱいの感謝を伝え、父さんを送り出す。

人間って、あっという間に姿カタチが無くなるものなんだね。
あの父さんがもうこの世にはいない、ということが実感として感じられない。
ここまで葬儀を行なっても実感できない。これが人の死なのだろうか…

父さんの人生は71年で幕を閉じた。人によっては “まだ早い” と思うかも知れない。
でも父さんは人生を満喫し、大家族に恵まれ、息子らに看取られながら世を去った。
「良い人生であり、良い父親であり、良い最後であった」 と思うべきだろう。

位牌を喪主である母さんが、遺骨を長男が、そして遺影を次男である私が持った。
遺影の中の微笑む父さんを見て、私のとなりにいた息子が呟いた。

息子 「おじいちゃんだね」
私  「そうだよ」
息子 「でもおじいちゃんいっちゃった、くろいくるまにのって、ひとりで…」

3歳の息子が何を見て、何を感じたのかは分からないけど、そうだったんだ…
でもお爺ちゃんはずーっと見てくれているんだよ。お空の上から。

みんなでワイワイと賑やかに送り出したのだから、父さんは笑顔でいるだろう。
これからは気兼ねなく美味しいものを食べ、ビールを気持ちよく呑んでほしい。

そして、居間でゴロ寝しながら茶菓子でも摘んで、テレビでも見ているように、
私たちの…、いやまだまだコロコロした孫たちの成長を眺めていてほしい。

残された私たちは、これからゆっくりと父さんが亡くなったことを実感するだろう。
それでも悲しみに捕われ過ぎず、しっかりと心を持たなければならない。
それぞれの家族があり、子供達がいて、みんなが笑顔を待っているのだから…

他の人にとっては、なんてことはない普通の2週間。
でも、私の人生にとっては、とても大きな、とても考えさせられた2週間だった。
そして父さんと過ごす最後の日々だった…

私はこの2週間を、ずっと忘れることはないだろう。

父さん、今まで本当に、本当にありがとう。



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2週間 (3)  


9月10日 (水)

早朝、母さんと交代した。母さんは今日一日、仕事をお休みにしたという。
私は昨晩の様子を伝えた。まだ父さんのヒキツケは治まっていない。

その父さんの苦しそうなヒキツケの姿を見て、母さんが嘆いた。
たとえ遠方の親戚でも、仲の良かったご近所さんでも、
もし今日父さんをお見舞いしたいと言ってきても、全て断わる、と…

長年連れ添ってきた伴侶の苦しむ姿を、多くの人に見てもらいたくない。
みんなには、まだ穏やかだった頃の夫の記憶のままでいてほしい。

そんな母さんの気持ちが、痛いほどに伝わってきた。

仕事を一日お休みとし、母さんは病院にいて、ずっと父さんに付き添った。
のちに、この夫婦だけの時間はとても大事だったことになる…

話せるわけじゃないけど、たぶん父さんと母さんはいっぱい話したんだろうな。
想像でしかないけど、私はそう思う。夫婦の絆って理屈じゃないと思うから。

夕方、母さんは主治医に声をかけられたそうだ。

話を聞くと、血圧、体温、心拍数等を考えると、今夜が一番危険であるという。
「連日、息子さんが泊まっておられますが、今夜は奥様の方が良いかもしれない」
と、医師が言ったそうだ。他の看護師も口を揃える。

これまでとは医師の態度が違う。発言からしても、本当に今夜が峠なのだろう…

四男夫婦が父さんを見てくれている間に、今夜どうするかを集まって話した。
私は昨日泊まっているから連日は厳しいだろう、と、長男が今夜の泊まりを申し出る。
母さんは今日一日病院にいるし、やはり泊まり込みで無理をさせられない。

そこで四男夫婦にそのまま見ていてもらい、夕食後に一旦解散する。

それぞれ自宅へと帰ったが、何をするでもなくそれほどの時間は無かった。
病院にいる四男から連絡が入り、慌てて車に飛び乗る。

病院に四男夫婦、そこに長男、三男と駆けつけ、最後に私と母さんが到着した。
それぞれの奥さんは、それぞれ小さい子供を抱えているので、自宅で待機に。

父さんは、随分と落ち着いた様子で静かにゆっくりと呼吸をしている。
しかし、もろもろの数値は下がっており、安心できない。

私は昨晩の苦しい父さんの姿を見ているから、それを思うととても穏やかに見えるが、
反対に考えれば “そういった状態” すらももう越えてしまった、ということなのか。

最初に透析が出来なくなった時に、母さんらは医師に呼ばれ、
「状態からみると、恐らく苦しまずに、眠るようにすーっと逝ってしまうでしょう」
という説明を受けたそうだ。

今、父さんはそこへゆっくりと向かっている、と見るべきなのか…

それでも少し数値が安定した。ここ数日のように、今夜も無事に越えるのではないか?
また昨日と同じ明日が来て、どのように交代しようか、なんて話になるのではないか?

ちょっとした安堵感が生まれ、母さんと四男の奥さんが一旦、自宅へと戻る。

病室は父さんと、その息子の四人兄弟だけになった。

なんか父さん、実家の居間でいつものようにゴロ寝してる感じだね、と笑った。
こうして親子で揃っているのなら、ビールの一杯でも呑むのにな、とつぶやく。
翌日の9月11日は、実は長男家の結婚記念日。時計を見る。そろそろ日付が変わる。
忘れてもらわないように、記念日に被るように頑張っているのか? と長男。
四人で笑う。こんな男ばかり四人に囲まれても嬉しくないだろうな、そこでまた笑う。

ベッドを囲み、たわいもないことを兄弟で語って、不謹慎にも笑いあった。
ウチの兄弟は本当に仲が良い。私にとっての兄弟とは、胸を張って自慢できる存在。
心からここにいる男達が、自分の兄弟で良かったと思う。

そして今、ココには確かに、父と息子達のかけがえのない時間があった。
振り返って思うと、それがたまらなく嬉しかったことに気付く。

長男の奥さんから聞いた話では、たとえ耳が聞こえなくなっていたとしても、
人は亡くなる前に “心の耳” が開き、ちゃんと周りの声が聞こえているのだという。

父さんには聞こえただろうか? あなたの息子たちがあなたを囲んで話し合う声が…
仲の良さは昔も今も変わらず、ずっと一緒だよ。だから、心配しないでね。

そうしていると日付が静かに変わり、運命の9月11日となった。



9月11日 (木) 深夜

本当にとても穏やかに呼吸をしていた父さん。だが、徐々に無呼吸となる。

「ちょっとちょっと呼吸してないよ」 「ほら、しっかり呼吸しなきゃ」 「父さん!」
肩や胸、頬を軽く叩き、父さんを刺激する。すると再び大きく呼吸をする。
思わずふーっと息を吐き、笑顔がこぼれる四人。兄弟四人揃っているのが心強い。

だが、無呼吸から戻るまでの時間があきらかに長い。もう父さんは限界だった。

そんな父子のやりとりが2~3回続いた後、父さんの呼吸が止まった…
「呼吸しなきゃダメだよ!」 と声をかけながらも、私達はみんな分かっていた。

頑張った、本当に頑張った。何度、危険な山を越えたか、何度、踏みとどまったか。

父さんはもう呼吸をしていない。涙が止まらない。

でも、手首を触ると微かに脈を感じる。胸を触る。心臓の鼓動も微かに伝わる!
まだ父さんは頑張っていた! 三男が自宅の母さんに電話を入れる。
待っているんだ、母さんが来るのを。そうだよ、結婚して40年連れ添ってきたんだ。

実家から15分。大した時間でもないのに、あまりにも長大な時を感じた…
その間、ずっと 「今、母さんが来るからね」 と声をかけ続けた。
そして母さんが到着する。父さんの心臓はまだ動いていた。ちゃんと待っていた。

妻子で父さんに 「ありがとう」 を伝える。そして、父さんは永遠の眠りについた。

平成20年9月11日 木曜日 午前1時38分 慢性腎不全 享年71歳

私は、兄弟たちそして母さんと共に、父さんの死に目に会えて、本当に良かった。
自分に人生をくれた父さんを、しっかり看取れたことを、心から誇りに思う。

そして、本当にバカげた選択肢で後悔をせず、今この場にいれることに感謝した。

それから少し経ち、四男の奥さん、そして長男の奥さんが駆けつけた。
看護師である長男の奥さんは、この病院の看護師だけに任せず、
父さんの身体を自分で拭いてあげたいと願い出て、病室に入っていった。

私はこの行為に心から感謝した。本当に父さんはみんなに愛されていたんだね。

私たちは深夜ではあるが、父さんの死を、それぞれ伝えるべきところへと連絡した。
そして病室の荷物をまとめ、葬儀屋さんに連絡を入れつつ、自宅へと帰る。

深夜3時。葬儀屋さんによって、父さんが帰ってきた。
ずっと一緒に住んできた我が家へ、そしてずっと帰りたかった我が家へ…

お帰りなさい、父さん。



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2週間 (2)  


9月7日 (日)

早朝6時に病院へ。昨晩、泊まり込みで父さんを見ていた長男と交代する。

これまで母さん、そして兄弟たちが交代して、毎日寝ずの番で看病していたそう。
本当に頭が下がる思いだ。今日からは次男である私にも任せて欲しい。
私は特別な扱いなどいらない。遠方から来たとか関係ない。兄弟はみな平等だ。

長男の報告では、昨日よりも呼吸が落ち着いて、血圧も少し戻ったそうだ。
しかし呼吸をするのが精一杯で、もう喋ってはくれない。

私が聞いた父さんの最後の言葉は、お盆の時の 「大丈夫だ」 だったが、
長男から教えてもらった父さんの最後の言葉は 「○○ (私の名前) は?」 だった。

数日前に、父さんの容態がおもわしくなく長男、三男、四男が顔を揃えていたとき、
そこに四兄弟で次男の私だけがいなかったので、私の名を口にしたそうだ…

父さんを見つめ、病室でひとり、私はぼろぼろと涙をこぼした。

私は今、ここにいる。
息子として声を掛け、手を握り、苦しそうなら背中をさすることも出来る距離にいる。

私は今、ここにいる。
だからこれまでずっと言えなかったこと、父さんに謝りたかったことをそっと独白した。

それは恐らく私の人生にとって、とても大事なことだったと思う。

日中、仲の良いご近所さんや、父さんの親戚の方が病院を訪れてくれた。
語りかける声、握るその手にしっかり反応できない。でも父さんは分かっているだろう。
長年付き合ってきた親しい方々の顔を、声を、思いを、忘れるはずがない。

父さん母さんは本当に多くの方と信頼関係を持ち、温かい町内に包まれている。
親しい方がたくさんいると、こういったときに心の頼りになるんだね。

「○○君も遠方から大変だったね」 と会う人みんなから優しい言葉をかけられた。
でも私自身は自分のことはどうでもよかった。大変でもなんでもない。
むしろ何も出来ず遠方に離れたままの方が苦痛だった。まったく比べるべくもない。

その後、私は実家に残してきた妻と子供達が心配だったので、一旦実家に戻り、
今夜は私が泊まり込みで見るため、子供達を寝かしつけた後、夜11:30に再び病院へ。

深夜、2時間おきに看護師が様子を見に来る。
呼吸は落ち着いてはいるが、血圧などはやはり徐々に低くなっている。

静まり返った病院。オレンジ色の予備灯だけの病室。ふと、ひとり不安を憶える。
父さんには、あとどれぐらいの時間が残されているのだろうか…



9月8日 (月)

平日の朝が来た。母さんが来たので、私は交代して実家に戻る予定だったが、
その前に母さんと一緒に、父さんの伸びた髪を切ってあげた。
短髪がよく似合う父さん。すっきりさせたことで、いつもの父さんのように見えた。

私の兄弟たちはそれぞれ仕事へと出かける。
近いうちに “必ず” 休みを取らなければならない日が来る。そう、必ず来るのだ…
だから誰かが父さんの様子を見ることができ、容態が落ち着いているようならば、
今のうちに職場に出て、出来る仕事を進めておいた方がよい。

私はそうすることができない立場。だからこそ今は、より多く父さんの傍らにいる。
自分がいることがみんなの安心に繋がる。そして息子として父親にできることをする。

それをするために来たのだから…

小さい子供を見つつ、また早めに仕事を上がりつつ、みんなが交代して父さんを見る。
ここにきて家族の多さが大きな支えになる。みんなの思いが伝わるかい? 父さん。

夜7時、病室にいる長男からメールが届く。血圧、体温が急激に下がったとのこと。
看護師である長男の奥さんが言う 「もう病院に行った方がいい」 と。

その時が来てしまったのか!? 父さん、まだみんな集まっていないよ!!
三男家、四男家にも出来る限り早く病院へ集まろう、と電話を掛ける。
私は妻と子供達を車に乗せ、病院へと向かった。15分の距離がもどかしい。

病院に着くと、四男夫婦がすでに来ていた。三男はまだ仕事帰りの電車の中。

付き添っていた長男に様子を聞く。どうやら嘔吐した後に急変したらしい。
その後、危険な状態からなんとか脱し、少し落ち着いたという。安堵するみんな。
だが血が混じった黒いものを吐いている。毒素はかなり上がってきているのだろう…

長男の奥さんがこの病院の看護師に代わり、父さんの呼吸を楽にさせるために、
丁寧に痰を出させようとする。ここの看護師よりも本当に頼りになる人だ。

そこで三男夫婦も到着し、みんなで父さんのベッドをぐるりと囲む。

不意に、とても可愛らしいしゃっくりをする父さん。
緊張が解けたからか、思わずみんなで笑ってしまう。不謹慎だけど嬉しかった。
父さんが、心配して集まったみんなに素敵な時間をくれたのかな?

そんな、人が持つ生命力、いや父さんの生命力を、家族みんなで感じた夜だった。

でも一応心配だから、今夜は長男が病院に泊まって様子を見ることにする。
しかし翌日はそのまま仕事に行くことになるのだから、
私が早朝に交代して、少しでも早く長男を家に帰れるようにしよう。

夜、寝るときに妻にそっと謝った。病院に行き通しで子供達も見れずにゴメン、と。
妻は優しく 「そんなことないよ、大丈夫だからね」 と言ってくれた。
その言葉に甘えるワケにはいかないが…、でも、支えになる言葉が嬉しかった。



9月9日 (火)

朝6時に交代して、午前中いっぱいは私が父さんを見ていた。
2時間おきに看護師が血圧等を計り、その数値を私がみんなにCCメールで送る。
昨晩よりも安定した数値なので、ひとまず安心。

しかし本来透析をする曜日だ。これで数えて5回も透析をしないことになる…
あえて死に向かって過ごさなければならない今とは、なんと残酷なのだろうか。

お昼は、仕事の合間に母さんが病院に立ち寄るので、そこで交代。
また三男の奥さんも、子供を幼稚園に迎えに行く前まで見に来てくれる。

お昼に実家へ帰った私は、じっと家で待っていた妻と子供達を連れ、
近くの広い遊具広場へと出掛けて子供達を遊ばせ、ファミレスでお昼を食べた。
ずっと実家に来ているのだ。少しは息抜き、気分転換をしないとね。

とても日が暑い。残暑はまだまだ続きそうだ。

夜。本当は三男が今夜は泊まるよ、と言ってくれていたのだが、
しかし、私は三男の代わりに自分が泊まると進言した。
様子が安定しているのなら、翌日出勤をしない私が泊まった方がいい。

三男が見てくれている間に、晩ご飯とお風呂、子供の寝かしつけを済ませ、
夜11時過ぎに病院へと交代に向かう。

父さんの様子が少しおかしい。一定の時間をおいて、ヒキツケのような感じになる。
全身に力を入れて身体をつっぱね、歯を食いしばるような仕草。非常に辛そうだ。
時間を計ると3~4分に1回の間隔で、このヒキツケがきている模様。

帰る予定だった三男も心配で、深夜しばらくふたりで様子を見る。

胃か、胸か? 毒素がどこまで上がってきているのか、自分たちには分からない。
だけど非常に深刻なところまできているのは確かだ。

ゆっくりしたテンポで優しく胸を叩き、「ゆっくり呼吸しよう」 と声を掛ける。
すると声が届いているのか、叩くリズムが伝わるのか、少し呼吸がゆっくりになる。
それで少しでも父さんが楽になれるのならと、そう思い、それを根気よく続けた。

結局、そのヒキツケは一晩続いた。

あれだけ全身で体力を使っていたのだから、相当疲れたことだろう。
ここまで苦しい思いをして、自らの死を迎えなければならないのだろうか…
そう思うと胸がぎゅっと苦しくなる。辛いよね、苦しいよね、父さん…

そして朝を迎え、父さんの71年の人生で最後の一日となった。



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2週間 (1)  


9月1日 (月)

夜、母さんから連絡が入った。
先月の30日 (土) に、父さんの透析に必要なシャントが閉塞したという。

シャントとは、動脈から静脈へと直接血液を流すためのバイパス。
透析で多量の血液を取り出し綺麗な血液を身体に戻すため、これを必要とする。

父さんは約10年、糖尿病を患ってきた。
そして慢性の腎不全になり、週3回の透析が必要な身体となった。

だが、糖尿病は血液が固まりやすく、シャントが閉塞しやすいのだという。

今の父さんの容態で、新たなシャントを作るのは身体に負担が大きく危険とのこと。
つまりこれ以上は透析ができない、ということに…

私は医学に詳しくないが、腎不全の者が透析出来ないと身体の血液を綺麗に出来ず、
尿毒症を引き起こし、体内に毒素が溜まることで死に至ってしまうという。

父さんは今、その立場にあった。

医師は母さんに告げた。父さんはもってあと1~2週間の命です、と…



9月2日 (火)

翌日、私は父さんの切迫した容態を会社の上司に話した。

今日からの2週間。これは普通の人にとっては何のことはない平凡な日々だ。
しかし父さんにとっては、この世での “人生最後” の2週間となる…

個人で異なる時間の在り方。余命として与えられた時の重さ。

これを、報告を受ける側の人間がしっかり理解出来るか出来ないかによって、
私と父さんとの “残りの時間” が変わるだろう。

「こっちの事は全然大丈夫だから、何も気にせずすぐに行ってあげなさい」
といった、無条件で情の篤さが伝わる懐の深い言葉など、そこには無かった。

上司と話し合った結果、私はあくまでも父さんの 「危篤」 の報せを待つ身となり、
すぐに実家へと飛ぶことを断念した。

危篤の報せを受けた後に飛行機に乗り、1000kmの移動を経て会いに行く…
それは、親の死に目に会うな、ということと同意である。

息子として旅立つ父親にできる限りのことをしたい、と私は話したが、
「死に目に会えなくてゴメンと、親に謝る選択肢をどうして選べない?」 と言われた。
間にあえる時間があるのに “わざと間にあわず”、それで誰の心が救われる?

それはどんな道徳観、倫理観、人生観に基づかれた崇高なる思想で、
いったい世の中の誰が認める一般的な社会常識なんだ? 聞いたことも無い。

口八丁では取り繕えない切迫した状況でこそ “人の本質” というのは見えてくる。
普段がどうであろうと、土壇場での言動こそが、その人の本音なのだ。

そして良きも悪きも、人にした行為というものは、必ず回りまわって自分に還って来る。

仕事を選び親の死に目に会わないことを、私は凄いとも偉いとも立派とも思わない。
それが立派な人物像であるのなら、私は立派な人間になどならなくていい。



9月3日 (水) / 4日 (木)

日、一日と時は過ぎていく。母さんは、兄弟は、みんなは今どうしているのか?
父さんは病院のベッドの上で、残る人生を、何を思いどう過しているのか?

すぐに会えない距離が、これほど怖いものだとは思いもよらなかった…

自分は健康なはずなのに、めまいがし、吐き気をおぼえ、呼吸が辛くなる。
所帯を持つ者として強くあるべきはずなのに、ここにきてただの子供に返ったようだ。

妻や子供たちにも、不安を越え、辛い思いを与えてしまっていただろう。
家庭内に笑顔を生まず、妙にピリピリと不機嫌な父親。まったくもって最低である。

「危篤」 といった、誰もが何もできないタイミングで連絡をもらったワケではない。
少なくともまだ “何かが出来る” 時間を与えられている状態での、今。
どうしてそれが分からない? しょせん自分以外の他人事はそんなものなのか?

これでは覚悟もクソもない。ただのバカである。

会社の事情というものもある。それとは別に個人の考え方もまた全然違うだろう。
価値観の相違などと言っていたら、いつまでも平行線のまま交わることはない。

しかし切実な思いで話した相手の気持ちを、もう少し “理解する努力” をしてほしい。
上辺だけで分かったと勘違いせず、相手の内なる “本当の思い” を察してほしい。

目先のことではなく長期的に見て、相手にとって今、何が一番大事なのか?

自分ばかりを肯定して相手のことを受け入れず、その気持ちを分かろうとしない人に、
人は絶対についてきてはくれない。



9月5日 (金)

夜、母さんから再び連絡が入る。

血圧、体温、血糖値、血中酸素濃度、どれを見ても徐々に下がっており、
不整脈が続く中、嘔吐し、かなり危ない状態である、と知らされる。

病院で付き添う長男夫婦が、この週末にもう私を呼んだ方がいい、と言ったそうだ。
兄の奥さんは別の病院の看護師。そうプロである。知ったかぶりのシロウトではない。
その目から見て危険であると言う。来た方がいいと言う。そういう状況だった。

そうでなくても先週末に余命を宣告されて1週間経つ。もう先はない。

それでも母さんは、こっちの事情を考えてからどうするか決めるように、と口を添えた。
父さんの事があなたの人生の全てというワケではないのだから、と…

私は自分の胸にあらためて問う。自分にとっての親とは、どういった存在であったか。
それは最後に 「ごめん」 ではなく、心からの感謝で 「ありがとう」 を言ってあげたい人。

私はこれまでの自分の人生で、そういう親子関係を気づいてきたのだ。

後悔とは、その物事が全て終わった後に自分のした行いを振り返り、悔いることだ。
もし今回、私がこのまま予想しうる最悪の後悔を黙って経ていたら、
それは私だけではなく、今の我が家に関わる周りの人の後悔にも繋がったことだろう。

そういった瀬戸際であることを、分る人と分らない人がいる。

だが、今はまだ終わっていない。後悔を生まない選択肢がそこにある。
見えている後悔を後悔としないために、今の私ができること。それはひとつ…

危篤という知らせではないが、私は妻と話した後、明日、実家へ飛ぶことを決断した。
先の上司に連絡し、事の経緯を真剣に伝える。そして飛ぶ許可を得る。

先日の話のうえでの今である。恐らくしっかり得心があっての許可ではないだろう。
それでも許可を出した。許可を得た。後のことはどうであれ、この結果だけでよい。

明日だ。

父さん、あなたの息子、あなたの次男は、明日会いに行くよ。



9月6日 (土)

ふたりの子供のことを考え、早朝ではなく昼の飛行機を選んで飛ぶ。
そしてモノレール、JR線、タクシーと乗り継ぎ、実家に到着したのが午後4時。
荷物を置いて、実家の車で病院へ。

そして、父さんに会う。

お盆の時に会った父さんとは、また随分と違っていた。さらに活力が見えない。
目は虚ろであまり開けず、また呼吸は荒くいっぱいいっぱいである。

「父さん、帰ってきたよ」 私は声を掛け、手を握った。

頭を左右に揺らしながらも、父さんが私を見る。
目があったような気はするが、ちゃんと見えているかどうかは分からない。

それでも私は他の時間とは異なる “父さんの時間” に間に合った。

お盆の時に私に対して 「大丈夫だ」 と言ってくれたのは、
私が帰るまでちゃんと待ってる、ということだったのかもしれない。
私はそう信じた。

ありがとう、父さん。

しかし症状はかなり進んでいる。先月の30日 (土) に透析が出来なくなった。
透析は週3回、火・木・土曜となっている。
つまり30日から、9月2日 (火)、4日 (木)、6日(土) と、計4回出来ていない。
それだけ汚れた血液を出し、綺麗な血液を身体に送っていない、ということだ。

毒素は下から上へと順に巡りながら、徐々に身体を上がってくるという。
足はもう可哀相なくらい、いっぱいいっぱいに腫れていた…

それでも私は何の根拠もない言葉を発し、父さんの頭を軽く撫でた。

「大丈夫だよ父さん、大丈夫だ…」



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死去  


9月11日 木曜日 午前1時38分。

父さんが亡くなりました。



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父さん  


8月22日~24日、実家に帰省した。
この春から病院に入院している、父の容態が思わしくないという。
今回のお盆帰省は、父のお見舞いが一番の目的だ。

地元に着いたその足で、早々に父のいる病院へ。

ベッドで寝ている父。その顔を覗き込む。
随分と活力を失っているような、そんな印象を強く感じる。
正月に会った時はもっともっと元気で、自分で杖で歩いていたのに…

母が父を起こし、久しぶりに対面。
私は笑顔満面で 「元気そうだね」 って肩を優しく叩いた。
眠そうで虚ろな目をしていた父が、静かに微笑む。

私は終始笑顔を見せた。私には、そうすることしかできない。

心配そうな顔や、神妙な面持ちなどできるはずがない。
お見舞いは、心が弱くなっている者を “励ますこと” “元気にすること” が第一。
余計な不安を駆り立てるような顔しかできないなら行くべきではない…、と思う。

「随分と痩せたね」 「あまり元気がないね」 「頑張ってね」 など、
相手のことを切に思っているのであれば、こんなセリフなど吐けるはずもない。

こんな言葉は相手に対して 「自分はこんなに心配しているんだよ」 という、
ただのポーズであり、意味の無い自己アピールでしかない。
ヘタに訳知り顔でマイナスな言葉を並べ、それで誰が幸せになるというのか?

いつもと変らず、明るく接することを忘れない。
だって相手は元気だった頃の “いつもと変らない自分” を求めているのだから。

私はただ笑顔で父の頭を撫で、肩を叩き、背中をさすり、そして声をかけた。

もう随分と耳も遠くなった父。こちらの語りかける声はあまり聞き取れない様子。
だから笑顔を絶やさない。それが少しでも活力に繋がるのなら…


父は5月に入院して、早3ヶ月になる。肺炎を患っての入院だった。
だが、それ以前に週3日透析に通い、そちらはもう3年になる。

肺炎は治ったという。しかし退院はできない。そして活力が衰える父。どうして?

病院の体制が良くない、ということを耳にした。
あまりに一方向に寝たきりにさせすぎで、背や足に褥瘡 (床ずれ) が出来ており、
杖でひとり歩き出来ていたのに、足がやせ細り弱くなったため出来なくなっている。

人員不足? 患者ひとりひとりを見れない? で、そんな言い訳を聞けと?
患者を良くするべき病院が、かえって悪くするとは、いったい何をしている!!!

もちろん私は医者ではない。あーすべきだ、こーすべきだと偉そうには言えない。
しかし 「病院の不手際で患者に不必要な傷を作るってオカシイだろ」 とは言える。

もはや看護する人間の質の問題だろう。早く病院を替えるべきだ、と家族は話す。
でも、受け入れる側の病院を見つけるということは、また容易ではない。
そして父本人の体力も心配だ。不整脈が続く今では、もう難しいのかもしれない…

私の母と兄弟は、なんとか父の容態が良くなるよう、いろいろと頑張っている。
私は遠く離れた地。看病もできず、また頻繁に顔を見に行くことすらもできない…

不意に 「自分の選択は間違っているのではないか?」 と思ってしまう。

ふと、自分を罵倒し責めたくなる気持ちがふつふつと湧き上がり、
またふと、どうしようもなく涙が溢れそうになる時がある。

誰もがストレートに間違いのない “正しい道” を歩めるわけではない。
脇道に反れることもあれば、道草を取ることもあり、大きく迂回することだってあるだろう。
そうしていろんなことに気付き、いろんなものを学んで、自分の道が出来ていく。

でも、迂回中に大事なものを失った時、その思いはどこに向かえばいいのか…

私はそれが他の人に向かないよう、大事な時の決断は自分で下すようにしている。
自分の判断で、自分の責任で。
我が家のことを一番に思い、妻と子供を一番に思い、私は常に決断していく。

頑固で力強い父の背を見て育った。一家の大黒柱として毅然と立つ姿を教えられた。
だから例え何があろうとも…、私は倒れることはない。

…そう、思いたい。


ふと、私は思い出す。

実家の裏の家 (旧実家) の1階がまだ仕事場だった頃、晩ご飯の時間になると、
実家の勝手口から裏の家へ行き、機械音に囲まれて仕事をしている父を大声で呼んだ。
学校から帰ると大概、裏の家に行き、最初に 「ただいま~」 と叫んだものだ。
いつもそこに父がいた。作業着姿で鉄板を裁断したり、穴を開けたり、溶接したり。
毎日聞いた機械音は今でも耳に残っている。でも、あの大きな機械たちはもう無い…

ふと、私は思い出す。

小学生の頃、町内の少年剣道大会に出場して準優勝を勝ち獲った。公民館での表彰式。
しかし同じ日、市の絵画コンクールで入賞していたらしく、市民会館でも表彰式があった。
剣道大会で準優勝でも、絵画コンクールの事を忘れていたことを父に怒られた。
町内の大会と市のコンクール。確かに参加人数の規模も表彰される舞台もケタ違いだ。
剣道で褒められた直後に怒られた “落差の激しい記憶” が鮮明に焼き付いている…

ふと、私は思い出す。

息子が生まれてから半年くらいの頃、実家でヒマを持て余していた父が電話をしてきて、
「今からそっちに遊びに行こうか?」 と言った。こんな何気ない電話は珍しい。
しかし1歳児未満の乳幼児をかかえている時は、不意の来客は何かと困る場合がある。
私は妻と息子を優先させて、その時の父の来訪を断った。
その後、故合って他県に引っ越した我が家。もうそんな気軽な父の来訪は望めない…


結納の時に一度だけ、両親を連れてこちらの県を訪れた。
一緒に入った温泉。親子で語り合った宿。今振り返ると、その時間はとても濃密だったんだ。
昨年、両親が来訪する話しもあったが、都合が悪くなって来れなくなった。

またそういった時間は作れないのだろうか…

後ろ向きな考えは悪い気を呼び込む、と聞く。だから前向きなことを考える努力をする。
しかし昔のことを思い出し、懐かしさに心苦しくなり、ため息ばかりが洩れる。

“すぐには会えない” その距離がより一層の悲壮感ばかりを募らせるのか。
車でいける距離であれば法定速度を無視してでも、自分が飛ばせばそれだけ早く着く。
しかし飛行機だとフライト時間が決まっている、すぐに、そして早く飛べるわけではない。

東の空を見上げる。そこには何もないが、でもその空の先は、父の空と繋がっている。

人は誰もが心の奥で、後悔しない人生を願い、その中で生きている。
自分のその一歩は、その一言は、その一念は、いつか後悔をもたらさないだろうか?
常に頭の片隅にチラつく、その思い。人はそれに微かに怯えながら、それでも生きていく。

父の人生はどうだったのだろう。母の人生は、兄弟は、妻は、未来ある子供達は…
そして、今の私はどうなのだろう…。そんな考えがぐるぐると渦を巻く。
心が悲しみに囚われすぎていないだろうか? 周りが見えなくなっていないだろうか?

今は情けない夫、情けない父親に映っていることだろう。
しっかりしなければと自分に鞭を打つ。それでも時間が掛かることを許して欲しい。


帰省の最終日、病院にお見舞いに行き、笑顔で父の肩をさすった。

前の晩、母から 「もしかするかもしれないから、覚悟だけは…、ね…」 と言われた。
笑顔で優しくさすりながら、私はそれを思い、無性に泣きたくなった。
私は本当に間違っていないのか? 私は親不孝な息子なんじゃないのか!?

父は水が飲みたい、と言う。しかし医者から点滴のみで飲食を止められているようだ。
口が渇いたら潤したいよね。喉が渇いたら水を飲みたいよね。当たり前だよね。

ここはどこだ? 砂漠か? 飲むものなんて周りに腐るほどある都会じゃないのか?
水は、オアシスは、人に生きる活力を与えるのものではないのか!?

お酒が好きだった父。糖尿病を患ってからはほとんど呑めなかったが、
家族が揃う正月とかには、小さいコップでいいからビールをくれとせがんだ。
そうしてでも親子で呑んだ日々が懐かしい…

私の兄弟は全員お酒が呑める。父の血を継いだ酒好きばかりだ。
いつか自分の子供達も呑む日がくるだろう。できれば親子三代揃ってお酒を呑みたい。

今一番辛いのは私であろうはずがない。他の誰でもない父本人に決まっている。

だけどそれを履き違えてでも、その辛さを痛感し、また悲観する自分の愚かさを恥じる。
私はこんなにも弱く、こんなにも頼りなかったのか…


ねえ、父さん。いつも顔を見に来れない悪い息子で、ごめんね。

ねえ、父さん。仕事も手伝わずに休憩時間の茶菓子を全部食べて、ごめんね。

ねえ、父さん。居間じゃなく台所の小さいテレビで野球を見せて、ごめんね。

ねえ、父さん。市民会館の壇上で表彰される姿を見せられないで、ごめんね。

ねえ、父さん。遊びに来ようと思っていたのを断ってしまって、ごめんね。

ねえ、父さん。一人前になったつもりで偉そうな小言ばかり言って、ごめんね。

ねえ、父さん。喉が渇いているのに水もあげられないで、ごめんね。


One more time もし、自分にもう一度同じような時間があるんだったら、
One more chance もし、自分にもう一度同じような機会があるんだったら。

それでも性格は変わらないのだから、同じことをして、同じ道を辿るのかもしれない。
でも、もう一度あの頃の同じ場面に出会いたい…

頑固で力強かった父。今は病院のベッドで横になっている。私は背中をさする。
私は父の身長を超えてはいるが、父ほど大きい背中を持ち合わせてはいない。

父の手を握る。すると少し力強く握り返してきた。

静かに微笑む父が私に向かってひとこと、言った。 「大丈夫だ」
私はそれに対して笑顔で応える。 「うん、もちろん。大丈夫だよ」

“なにが” “どうして” 大丈夫なのか。でも、それ以上の言葉はいらない。
男同士で 「大丈夫だ」 と会話をしたのだから大丈夫なんだ。それに間違いはない。

ねえ、父さん。また会いに行くからね。


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そこに君がいた  


6月30日、来月の7日の七夕キャンプをより彩るために、
久しぶり (約3ヶ月ぶり) にiPodに新曲を入れようと思い、
レンタルCD屋で、20枚くらい最新シングルを借りてきた。

自宅のPCのiTunesにインポートし、まずまずな内容に満足。
さてiPodに落とすか、とUSBケーブルで繋ぐも、何か様子がおかしい。

あれ? いつも繋げたらオートシンクでデータが送られるのに、何故か反応無し。
原因がさっぱり分からず、翌日、家電量販店で聞いてみることに。

7月1日、状態を話すとiTunesのバージョンの問題なのでは? との回答。
何やら最新バージョンに不具合があるとかどうとか…
おいおい、iTunesからiPodに曲を落とせなかったら、まるで意味無いじゃないか。
早く不具合を解消しなさい! 迷惑してる人多いらしいぞー!

…と、そんな問題が生じ、久しぶりにiPodを家に置きっぱなし状態に。

通勤時にiPodで音楽が聴けないのは、ホント久しぶりだ。

そんなとき車内に流れてきたのが、CDトレイに入れっぱなしだった、
某ゲームのサウンドトラック。

以前に仕事をご一緒させていただいた縁で、メーカーから送って頂いたものだ。
戴いた当時はヘビーローテで聞いていたが、あらためて聞くと、やっぱりイイ!
私は、音楽の良し悪しを明確に表現し、人に伝えるような術は持たないが、
本当に心に深く強く響き渡る、素晴らしいメロディばかりの良サントラである。

このCDを聞くのも3ヶ月ぶりくらいだ。

ふと、そういえばあのメーカー、新作とか情報出ているのかな? と思い立ち、
7月2日、久々にメーカーの公式サイトを覗いてみた。

しかし、そのトップページには、想像などできるはずもないことが書かれてあった。

それは当社の音楽担当である、作曲家が永眠されたということだった…
昨日から久しぶりに聞いた、サントラの作曲家、その人の突然の訃報。


思わず固まった。


心がぶるっと震えた。


作曲家の彼の個人サイトに飛んでみると、6月末に逝去された旨が書かれてあった。
サイト管理人による7月1日付のアップ記事…、昨日更新されたものだった…


心臓がバクバク唸った。


「iPodで最新ポップスばっか聞いてないで、僕のサントラを聞いてくれよ」
そんなことはないのだが、本当にそう言われたような気がして、目頭が熱くなった。

こんなことってあるの…


作曲家と編集者…、直接会って仕事をしたことはない。常に間接的な関係だった。
メーカーを通して3者間で何度もやりとりをし、1冊の本をカタチにしてきた。

そうした相互の協力関係で、幾冊かの本を世に送り出した。本当に長い縁だ。

彼は、彼自身のサイトの日記で、私の本が発売された後の感想を、こう綴っている。
間接的にでも一緒に仕事ができたことはシアワセです、と…

大した編集者ではなかったけど、プロがプロとして認めてくれていたのが嬉しかった。

私こそ、あなたの音楽に出会い、その音楽に包まれながら仕事がご一緒できた日々は、
本当に幸せでした。情熱に燃え、妥協を許さず、そして作品に心から涙した。

私の人生において宝のような、かけがえのない大切な時間と経験を戴けたことに、
ただただお礼しか言えない。…もう直接はお礼を言えないのだけど…

当時、メールやFAX、またはメーカー担当者を通してお礼のやりとりは何度もした。
しかし直接、自分の口で本人にお礼を言うことは、ついに一度もなかった。

遠方同士の仕事の仕方、こんな時代ならではなのかも知れないけど、
でも、とても口惜しい気持ちでいっぱいだ…、なんて私はバカだったのだろう…



遙か彼方へと旅立った彼に届くように、今あらためて心を込めて…

本当にありがとうございました



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京都のおじさん  


今朝、京都のおじさんが亡くなりました。享年57歳、ガンでした。

私の母の弟にあたる、京都のおじさん。

ウチの母が京都出身であちらには兄弟姉妹が多く、親戚の家が6件もあります。

だから高校くらいまでは、毎年夏休みに京都に出かけ、よくお世話になりました。

京都にはおじさんおばさんはもちろん、従兄弟たちがいっぱいいるので、

ウチにとって京都は、第2の故郷のようなところです。

その中でも、誰からも頼られ、まさに親戚一同の代表であった京都のおじさん。

随分と年が離れているのに、気さくなアニキ的な感じの楽しい人でした。

3年くらい前から闘病生活に入り、昨年危ない時期もあったけど、

それも乗り越えて元気になったと思ったのに…、非常に残念でなりません。

こんな感じの大人になりたいな、と思わせる器の大きさ、懐の深さがあり、

もう会うことはないのだと思うと、とても寂しいです。

おじさんと最後に会ったのは、もう今から4年も前…

私たちの結婚式で沖縄に招待したときで、親戚代表としてスピーチをいただきました。

甥っ子 (ウチの兄弟) の結婚式にはどこへでも飛んで行くって言ってくれた人だった。

私たちの結婚式が沖縄だと聞いたときは、さぞワクワクしたんだろうなぁ~。

そんな心優しいおじさん…

毎年、感謝の年賀状を送り、また必ず年賀状を送ってもらえた。

おじさんには、ちゅぱおとちゅぱみを会わせる機会が一度も無かったけど、

それでも年賀状の写真というカタチで、その姿を見せてあげられて良かった。

ちゅぱおとちゅぱみ、元気にぷくぷくと育っていますよ。

よかったら、ふたりの成長を見守ってあげてくださいね。

でも、ゆっくり休んで、ゴロ~ンと横になってテレビでも見るような感覚で、

そんな感じで見るのが一番です。もう忙しいのは終わったんですから…

京都のおじさん、私たちの結婚を祝ってくれて、心からありがとう。

そして小さい頃から今まで、本当にありがとうでした。


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